萩焼の歴史と概略

今から400年以上前、中国地方に一大勢力を誇った戦国大名の毛利氏が、近世初頭の慶長9年(1604)に萩へ移ったのちに、萩藩の御用窯として開窯されたのをはじまりとします。その開祖は、朝鮮渡来の兄弟陶工の李勺光と李敬(初代 坂 高麗左衛門)となります。

萩焼は 、高麗茶碗の系譜を引いており、茶道の隆盛という時代背景の中、茶陶として賞用されます。おだやかな釉薬の色合いと手取りの良さを特徴とし、茶人の珍重する「萩の七化け」という言葉が示すとおり、使い込むほどに色が変化し、その表情を変えます。

I omit several pages and translate English and Chinese .

Hagi-shi and Kamakura-shi that are a town of the history are sister cities.

萩城堡和鎌倉城堡是姐妹城市。这是历史的与对方的一个小镇。

The Hagi ceramic ware began as the ceramic industry for the feudal lord of the chugoku District of Japan 400 years ago.The name of the feudal lord is Terumoto Mori.

“萩焼”是400年前制作。“毛利”先生开始“萩焼”。“毛利”先生是后人的随行人员的幕府(源頼朝)。

He is a descendant of OE no Hiromoto who is an aide to Yoritomo Minamoto who is a general of the Kamakura.A color changes when I continue using the Hagi ceramic ware.The thing is called Hagi-no-nanabake(the varying of the bush clover )in Japan.

它(“萩焼”),并继续使用,颜色会发生变化。该变化被称“hagi-no-nanabake”(萩の七化け)

鎌倉と萩焼のゆかり
萩焼は、戦国大名 毛利輝元が御用窯として開窯し、400年余りの歴史の中で茶の湯における一井戸二楽三唐津という言葉が示す通り、古来高麗茶碗に負けない最高峰の井戸茶碗を目指して、試行錯誤し作陶され続けてきました。実にその萩焼を生んだ毛利氏の祖は、今から約800年余り前に鎌倉幕府を開いた源頼朝の側近であり、守護地頭の制度を考え出し幕府創設に貢献し、その褒美に現在の厚木と中国地方の領土を与えられた朝臣 大江広元になります。そして、大江広元の三男(四男とも言われる)が毛利姓を名乗り、毛利季光(すえみつ)となるのです。そして時を同じくして鎌倉の地では日本で初めて、臨済宗の開祖である栄西によって、碾茶(抹茶の元)の原型である蒸し製の散茶が伝来し、もたらされます。栄西は日本初の茶の専門書「喫茶養生記」を著し、将軍源実朝へ良薬としての茶にそえて、本書を献上しました。そして今、800年余りの年月を経て、茶の湯における萩焼井戸茶碗に到達させた毛利の萩焼の歴史、そして毛利ゆかりの地、鎌倉における碾茶伝来、茶の湯の歴史は、共に一連の繋がりを感じさせます。

取扱い作家

十三世 坂 高麗左衛門(坂窯)をはじめ、伝統の窯、他現代作家を取扱っております。商品イメージ

十三世 坂 高麗左衛門 「姫茶碗」 400年の時を重ねてきた萩焼の元祖直系の作家     

萩焼愛好家のオーナーは、萩焼作家 故松野龍司の姉で、表千家の茶道を嗜む、気さくな人柄。

萩焼についてのご要望やご相談に出来る限りお応えしております。また、贈答用や引き出物などにもご対応しております。